確認行為・強迫観念の当事者研究

強迫神経症の主症状は確認行為と強迫観念ですが、最近増えてませんか。自分も結構困ってるんです。

鍵確認繰り返したり、人に確認してもらいたくなったり、同じものいくつも買ったり。

なんとなく3の倍数にしたいとか、偶数を避けるとか。

「〜してしまったかもしれない」「〜しなくてはならない」といった考えが止まらないとか。

辛いのでなんとかしたいんですけどね。教科書とか専門誌読んでみても、書いてあることはその通りだと思うんですけど、実際に体感して困っている自分には、どうもピンと来ません。

大きな病院でカウンセリング受けた方は「とにかく確認しない」を鉄則に、徐々によくなったそうです。自分はそこまで出来ません。よっぽどでなければ出来ないと思います。

まずは仕組みを理解しなければ始まりませんので、自分自身の経験や患者さんたちの様子を参考に、当事者として自分なりに考えてみます。当事者研究です。

確認行為が繰り返される時は、大体何かしらうまくいっていなくて、落ち込んだり、不安だっりします。誰だって、例えば「将来の不安」とか抱えているし、時にそれがものすごく大きくなるのです。

そういう時って、上の空で目の前のことに集中できません。不安と集中困難で、行動が脳天の表面をツルツル滑って入っていかない感じです。それで何回も確認してしまいます。

そういえば確認行為は「誰かが一緒にいてくれれば」現れないことが多いです。自分の判断は信じられないけど、相手が「よし」といえば、それでいいのです。

ということは、日頃から、自分の頭で考えて判断し行動するというサイクルが確立されていないので、いざそういう場面になると、人を頼るか、パニックになって止まらなくなってしまうのでしょうか?

強迫観念のご相談で意外と多いのが「車で人を跳ねてしまったのではないか」。そんなはずはないと思っても、わざわざ確認に戻る方も多いんです。何かしら人を傷つけてしまったのではないかと、悶々とする場合がとても多い。人には危害を加えてはなりません。勿論そうです。しかし、なぜそこまで頭から離れなくなってしまうのでしょうか?

あとは「なぜか必ず『3』の倍数でなければならない」といったような奇妙な縛りです。偶数はダメで素数はいいとか。社会的にも「7」とか「8」は縁起がいいみたいな風潮はあるので、験担ぎなのかとは思いますが、だったら「ほどほどに収まる」ものだと思うのです。なぜこうも頑に守ってしまうのでしょう?

どうもしっくり来ません。確認行為や強迫観念が止まらないのはなぜ?「そんなはずはない、そんこと気にすることはない」とわかっているのに、なのになぜなんだ?

そしてある時、患者さんと話していて、閃いたのです。

確認行為や強迫観念が激しい時、自分は自分のことしか考えていない!自分の身の安全のことだけしか!人に危害を加えた可能性を心配しているのではなくて、人から危害を加えられる可能性に怯えていたのです。

鍵や火の元の確認行為は身の安全と保証の象徴です。身近な人にはついつい言ってしまいます、「大丈夫だよね?」って。誰かが付いていてくれるて、自分は安全をその人が保証してくれていることを、存分に確認してしまうのです。自分のことが心配で仕方ないから。自分のことばかりですから、基本的には相手には失礼な話です。ですので、許してくれそうな人にだけ何度も何度も、そうでないことを確認してしまうのです。その人は自分を見捨てないという確信の元に。そばにいる人が、その人を不快にさせると、自分の立場が危なくなりそうな人だった場合は、確認をお願いすることも、ぐっと我慢できてしまうのです。

数字などの縛りや、靴は右から履くとかも、ある種の祈りであり儀式です。お参り等も、ずっとやってたのをやめると悪いことが起こるとかいう話も聞きますね。初めはすがりにいっていたのに、いつの間にか、手を離すと危ないものへと変わってしまったのです。やるといいことが起きるというよりも、やらないと悪いことが起きるのです。思えば御百度参りだって、行動そのものは何かを解決する動作ではないのです。ですが一旦始めると、途中でやめるのは怖い。自分に悪いことが起こりそうで。

そして現代社会では、対人関係こそが最も危険。そこで失敗すると、社会から弾き出されてしまう。社会的に抹殺されてしまうのです。誰かが自分に傷つけられたといったらどうしよう。自分はそんなつもりはないけど、そんなことになったら、身の破滅です。「自分は悪気はないけど、あんなこと言ってよかったんだろうか。相手は悪く思ってないだろうか。それをみんなにいいふらされたらどうしよう、自分にこういうことされたって」等。これはパニックになるはずです。

交通事故というのは、誰でも起こしうるものです。自分も起こすかもしれない。注意して運転している、自分と同じ普通の人でも起こしてしまっているのです。そして起こしてしまった場合どんなことが起こるかも想像できます。交通事故は「自分ごと」なのです。ですが、ぶつけられることを心配する人はいない。なぜなら、恐れているのは、ぶつけてしまった場合の、社会制裁だからです。「車で人を跳ねてしまったかもしれない」と現場の確認を繰り返したり、ビクビクしながら過ごすだけでなく、警察にいって、事故はなかったか確認する方も多い。社会から糾弾されるぐらいなら、抹殺される前に、自分からそんなつもりはなかったと言わなくては。悪い人間ではないと、申し開きしなくてはならない。もう冷や汗タラタラです。何もないと言われても、安心できるはずがありません。

大事なのは「自分がどう思うか」ではなく、「人がどう思うか」なのです。その結果の自分の身の安全なのです。「人を傷つけたのではないか」ではなく、「人に傷つけられはしないか」なのです。

なんという身も蓋もない結論でしょう。ですが脳天にグサリと突き刺さって、これが真実であるという確かな手応えがあります。確かに自分のことばかりでした。悪気はないにしても。

これはいけません。自分のことばかり考えないように気をつけます。

ですが、なぜこんなことに?

なぜここまで人に怯えないといけないのでしょう?

このことについても考えてみようと思います。